文学地図
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110 作品が該当
秋田 雨雀『三人の百姓』
北の国の山奥の村に住む伊作、多助、太郎右衛門という三人の百姓は、炭を売りに行く途中の峠道で捨てられた赤ん坊を見つける。赤ん坊の懐には小判が隠されており、欲深な伊作と多助はそれを分け合うが、無欲で馬鹿正直な太郎右衛門は金を受け取らずに赤ん坊を引き取る。太郎右衛門と妻はその子を「朝太郎」と名付け、貧しいながらも我が子として深い愛情を注いで育てた。一方、金を手にした伊作は居酒屋を開くが、入り浸る多助と金…
芥川 竜之介『羅生門』
地震や飢饉などの災厄が続き、すっかり荒廃した平安朝の京都。ある日の暮れ方、主人から暇を出された一人の下人が、雨の降る羅生門の下で途方に暮れていた。彼は明日を生き抜くために、餓死を選ぶか盗人になるかという二択の間で迷っていた。一夜を過ごす場所を求めて門の楼上へ登ると、そこには引き取り手のない数多くの死骸が捨てられており、その中の一人の老婆が、女の死骸から髪の毛を抜き取っていた。このおぞましい行為を見…
芥川 竜之介『蜘蛛の糸』
ある日の朝、御釈迦様は極楽の蓮池から地獄を覗き込み、血の池でもがく大泥棒の陀多を見つける。陀多が生前に一匹の蜘蛛を助けたという唯一の善行を思い出した御釈迦様は、彼を極楽へ救い上げようと極楽の蜘蛛の糸を地獄へと垂らす。地獄にいた陀多は頭上から垂れてきた糸を見つけ、地獄から抜け出そうと必死に糸を登り始める。しかし途中で下を見下ろすと、数え切れないほどの罪人たちが自分の後を追って登ってくるのに気づく。細…
アミーチス エドモンド・デ『母を尋ねて三千里』
イタリアのジェノアに住む13歳の少年マルコは、一家の貧困を救うためアルゼンチンのブエノスアイレスへ出稼ぎに行き音信不通となった母を案じ、単身アメリカ(南米)へと旅立つ。船旅を経てアルゼンチンに到着するが、母は雇い主と共にコルドバ、さらに遠方のトゥクマンへと移った後だった。マルコは道中で資金が尽き途方に暮れるが、同郷の老農夫や親切な人々に助けられて旅を続ける。過酷な荷車の旅では人足たちにいじめられ病…
新井 紀一『怒れる高村軍曹』
高村軍曹は、自らの班に配属された新兵たちを愛情を持って指導し、連隊一の模範兵に育て上げることで、念願の曹長進級を果たそうと意気込んでいた。彼は軍隊内に蔓延る理不尽な暴力に疑問を抱き、理解と温情をもって新兵に接しようと努める。しかし、元木挽きでおどおどした態度をとる新兵の宮崎には手を焼いていた。ある朝、軍隊生活に馴染めなかった宮崎が兵営から脱走してしまう。懸命の捜索も空しく宮崎は発見されず、高村軍曹…
有島 武郎『半日』
雪の降る日曜日の午後、27歳の井田は、知人である32歳の相島の家に荷物を運び込み同居生活を始める。井田は周囲から結婚を勧められ、観念的な理想と実生活における「事実」との落差に悩み、強い焦燥感を抱えていた。一方の相島は快活で裕福な身の上でありながら、一つの物事に執着して安住することができない自身の臆病な内面に虚無感を抱いていた。その夜、相島は一人で教会へ赴き、牧師が世俗の中で苦闘する姿を目にする。相…
カプアーナ ルイージ『コロロッチョ』
昔あるところに貧しい農民の夫婦がおり、夜な夜な人の言葉を話すコオロギに悩まされていた。コオロギの助言に従って妻がそれを食べると、跳躍力と鳴き声を持つ男の子「コロロッチョ」が生まれた。彼は成長するとその特異な力で人々をからかい、王様の馬車を驚かせた罪で牢屋に入れられる。牢屋でも鳴き続ける彼を王が処刑しようとするが、斧は彼の首を傷つけることができず、脱出して王宮の屋根から鳴き続けた。騒音に耐えかねた王…
チェーホフ アントン『接吻』
ロシアの砲兵旅団がメステーチキという村で野営することになり、将校たちは地主の退役将軍フォン=ラッベクの邸宅でお茶に招かれる。内気で自身の容姿に強いコンプレックスを抱く主人公の二等大尉リャボーヴィチは、屋敷の暗い部屋に迷い込んだ際、暗闇で待ち合わせをしていたらしい見知らぬ女性から熱烈な接吻を受ける。この思いがけない出来事に心を奪われた彼は、相手の女性が誰か想像を巡らせ、これまで味わったことのない甘美…
太宰 治『人間失格』
東北の裕福な家庭に生まれた大庭葉蔵は、人間への極度な恐怖を隠すため、幼い頃から周囲に対して「道化」を演じて生きてきた。中学時代に同級生の竹一にその演技を見破られるが、上京して画学生の堀木正雄と出会い、酒、煙草、女、非合法運動に溺れていく。孤独と生活苦の中、カフェの女給ツネ子と鎌倉で情死を図るが、葉蔵だけが生き残る。起訴猶予となり実家から絶縁された葉蔵は、打算的な身元引受人の渋田の監視下から逃亡し、…
太宰 治『斜陽』
終戦直後、没落した華族であるかず子と母は、東京の家を手放し伊豆の山荘へ移り住む。まもなく南方の戦地から弟の直治が帰還するが、彼は貴族であることの苦悩から逃れるように、小説家の上原二郎と東京で酒に溺れる退廃的な生活を送るようになる。一方、かず子はかつて出会った上原への密かな思いを募らせ、古い道徳に抗って自らの愛を成就させる覚悟を手紙に綴る。やがて母が結核に倒れ、かず子と直治に見守られながら、「最後の…
ダンセイニ ロード『兎と亀』
動物たちの間で兎と亀のどちらが足が速いかという議論が起き、五百ヤードの競走が行われることになった。自信満々の亀に対し、馬鹿馬鹿しいと感じた兎はうんざりして途中で走るのをやめ、座り込んでしまう。その結果亀が勝利し、海亀の助言も手伝って、動物たちは亀こそが足の速い動物なのだと思い込んでしまった。その後、大風の晩に森で突然火事が発生する。たまたま森のはずれの安全な小高い禿山にいた数匹の動物たちは、森の住…
江見 水蔭『備前天一坊』
万治3年、備前岡山城下の旅籠「半田屋」に、浪人・小笠原金三郎が二人の仲間と共に現れる。彼は名君とされる池田光政の落胤を名乗り、証拠の脇差を武器に池田家への仕官と身分上昇を目論んでいた。欲深い宿屋の主人・九兵衛は金三郎らを歓待し、養女で美人の看板娘・お綾をあてがって自らも一攫千金を狙う。しかしお綾は、密かに思いを寄せる藩の側小姓・野末源之丞を通じてこの騒動を藩へ密告する。やがて、金三郎の愛人で資金源…
古川 アヤ『お猫さん』
白猫のお猫さんと黒猫のお黒さんは大の仲良しで、いつも一緒に行動している。お互いの毛色を羨んだ二匹は、町で毛を染め替えてもらったことで親から見分けがつかなくなり、色が落ちかけた際には病院で毛をすべて剃られる羽目になる。その後も、隣の犬のベルさんの新築の家を占領して怪我をさせたり、留守番中に大人の格好をして遊んでいたところを先生に見られて恥をかいたり、泥だらけの手であひるさんの誕生日会に参加して大慌て…
二葉亭 四迷『浮雲』
真面目で不器用な青年・内海文三は、役所を突然免職されてしまう。文三は同居している叔母のお政の娘・お勢に密かに恋心を抱いており、お勢もまた文三に好意を寄せていた。しかし、文三が免職の事実を打ち明けると、打算的なお政の態度は豹変し、文三を冷遇し始める。一方、要領よく上司に取り入って出世する同僚の本田昇が園田家に出入りするようになり、軽薄でお調子者のお勢の心は次第に本田へと傾いていく。文三は本田の無礼な…
グリム ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール『ヘンゼルとグレーテル』
大飢饉に見舞われたある年、貧しい木こりの夫婦は自らの口減らしのため、継母の強い提案により兄のヘンゼルと妹のグレーテルを森の奥に置き去りにする。一度目はヘンゼルが道標として落とした白い小砂利を辿って無事に帰宅するが、二度目に捨てられた際は目印にしたパンくずを小鳥に食べられてしまい、完全に道に迷ってしまう。三日目、森をさまよった二人はパンと砂糖でできたお菓子の家に辿り着き夢中で食べるが、そこは子どもを…
橋本 五郎『小曲』
ひどい暴風雨の夜、郊外の広い屋敷で一人留守番をしていた田中君は、外から女の悲鳴のような音や男の怒声、何かがぶつかる激しい物音を聞く。彼は外で殺人事件が起きたのだと思い込み、恐怖に震えながら夜を明かした。翌朝、田中君は事件の痕跡を探して屋敷の周囲を調べ、怪しい噂のある向かいの屋敷の主人を犯人だと疑って一人で監視を続ける。しかし昼近くになって、屋敷の前を通りかかった半纏着の男たちの会話から真相が判明す…
樋口 一葉『あきあはせ』
秋の気配が深まる中、去年の秋袷を取り出した語り手は、季節の情景に寄せて過去の記憶と亡き肉親たちを回想していく。「雨の夜」では、針仕事をしながら幼い頃に裁縫を教えてくれた亡き伯母を懐かしみ、老いた親の痩せた肩を揉みながら得も言われぬ心細さを覚える。「月の夜」では、庭の池に映る月を眺めている最中、幼い甥が姉の真似をして無邪気に亡き兄の形見である硯を池に投げ入れてしまい、語り手は兄への思慕をさらに募らせ…
樋口 一葉『たけくらべ』
吉原遊廓のそばである大音寺前界隈には、遊女を姉に持つ活発な少女・美登利、僧侶を目指す秀才の信如、高利貸の孫・正太郎、乱暴者の長吉といった子供たちが暮らしていた。美登利は気前よく振る舞い、子供たちの中心的な存在であった。八月の千束神社の祭りの夜、長吉率いる横町組が、対立する正太郎の表町組に乱入し、正太郎をかばった三五郎が殴られ、美登利も泥草履を投げつけられる事件が起きる。美登利は、長吉の後ろ盾が信如…
平林 初之輔『秘密』
外務省の翻訳官である「私」は、致死量のモルヒネを服用し、死が訪れるまでの数時間の間に自らの卑怯な顛末を書き残す。4年前に行方不明になったかつての恋人・浅田雪子から突然の手紙が届き、「私」は妻に嘘をついて横浜のホテルへ向かう。「私」は雪子が姿を消した後に、震災で天涯孤独となった「深尾みな子」と同情から結婚し、雪子との約束を破っていた。ホテルで再会した雪子は、自らがやむを得ない事情で純潔を失ったことを…
平井 肇『狂人日記』
ロシアのペテルブルクで役所に勤める42歳の九等官ポプリーシチンは、局長の娘ソフィーに密かな恋心を抱いている。しがない下級官吏である彼は、貧しい生活に不満を持ち、課長からは身の程知らずの態度を厳しく叱責される。次第に精神の均衡を崩した彼は、ソフィーの飼い犬メッヂイが他の犬と手紙のやり取りをしていると思い込み、犬の寝床から手紙の束を奪い取る。その妄想の手紙から、局長の家の内情や、ソフィーが若い侍従武官…
堀 辰雄『鳥料理』
「私」は、夢の中で得た構想を作品にすることの難しさを感じつつ、雑誌の原稿を書くために意図的に夢を見ようと眠りにつく。目覚めた「私」は、記憶に残っている夢の断片に想像を交えて物語を書き留め始める。第一の夢「奇妙な店」では、香炉を背負った象の行列を見た後、強い匂いが漂う無人のガラス張りの温室に入る。そこが阿片窟であり、何らかの惨劇が起きた直後だと推測したところで夢が途切れる。第二の夢「鳥料理」では、街…
池田 蕉園『「ああしんど」』
語り手の祖父が子供だった頃、家には曾祖母が泉州堺から嫁入りする際に連れてきた「三」という名の三毛猫がいた。三は18年もの長期間にわたって飼われ、耳も分厚くなるほど年老いていた。ある冬の日、炬燵の上で丸くなって寝ていた三は、急に伸びをして「ああしんど」と人間の言葉を発した。これを聞いて驚いた曾祖母は猫が化けると思って何度も捨てようとしたが、その度に三は家へ帰ってきてしまった。三は言葉を話した以外に悪…
池田 輝方『夜釣の怪』
「私」の祖父が、千住の女郎屋の主人と共に川へ夜釣りに出かけた際の出来事。二人が少し離れた場所で釣りをしていると、祖父は川で激しく水を掻き回すような音を聞く。間もなく、女郎屋の主人が突然帰ろうと言い出し、明るい場所に出るまで無言で怯え続けた。彼が語ったところによると、水底から馬や女に似た三尺ほどの不気味な顔が現れ、水面に浮かび上がって笑いかけたため、恐怖のあまり釣竿で水を掻き回して逃げてきたのだとい…
井上 紅梅『些細な事件』
都に来て六年になる語り手の「わたし」は、国家の大きな出来事よりも、ある一つの「小さな出来事」が心に深く刻まれている。民国六年の冬の朝、わたしは人力車を雇ってS門へ向かっていた。強風の中、急に飛び出してきたみすぼらしい老女の服が車に引っ掛かり、彼女は転倒してしまう。わたしは老女が怪我をしたようには見えず、面倒に巻き込まれたくないため、車夫に構わず早く行くよう命じた。しかし車夫はわたしの言葉を無視して…
井上 紅梅『阿Q正伝』
清朝末期から辛亥革命にかけての中国の架空の村・未荘。日雇い労働者の阿Qは、無学で貧しく家もないが自尊心だけは異常に高く、喧嘩に負けたり屈辱を受けたりしても頭の中で自分に都合よく解釈する「精神的勝利法」で日々をやり過ごしていた。ある日、地主の趙太爺と同姓だと吹聴して殴られた阿Qは、かえって村人から一目置かれるようになる。しかし、趙家の女中である呉媽に突然言い寄って騒ぎを起こしたことで村中から袋叩きに…
石川 啄木『葉書』
××村の小学校で代用教員を務める甲田は、父の死により進学を断念して郷里に戻り、目的を見失った鬱屈した日々を送っていた。彼は無能な校長の田辺や老獪な訓導の此木田らと共に、児童の出席歩合をごまかす事勿れ主義に染まっている。一方で同僚の女教員・福富を密かに意識していたが、クリスチャンでありながら打算的な彼女の振る舞いに複雑な思いを抱いていた。ある日、学校に中学生を名乗る乞食姿の若い男・高橋次郎吉が現れる…
伊藤 野枝『監獄挿話 面会人控所』
アナキストである内夫のEら同志たちが不当な理由で収監され、龍子は東京監獄の面会人控所を訪れる。冷え切った待合室には同じく同志のMやS爺がおり、彼らとともに面会の順番を待つことになる。控所には、様々な罪で収監された囚人の家族たちも集まっていた。初めは不安げでよそよそしかった彼らも、待ち時間の長さの中で次第に打ち解け、親方の軽口に笑い、互いの悲哀や苦労を分かち合うようになる。龍子は、権力を笠に着て面会…
岩村 透『感応』
パリで画学生として自炊生活を送っていた「私」は、同居しているハワイ出身のアメリカ人と怪談話をした。その男は、彼がハワイの伯母の家に身を寄せていた南北戦争当時の不思議な出来事を語る。ある夜、義勇兵として出征していた伯母の息子(彼にとっては従兄)が、家の外で「お母さん」と呼ぶ声が聞こえた。伯母とともに玄関を開けたが、そこには誰の姿もなかった。後日、無事に凱旋した従兄にその話をすると、まさにその日、従兄…
神西 清『「可愛い女 犬を連れた奥さん 他一編」あとがき』
1898年から翌年にかけて、38歳を迎えた作家チェーホフは胸の病が悪化し、医師の勧めで南欧を旅したのち、南ロシアのヤールタに定住する。多産な小説家としての経歴を閉じ、戯曲の世界へと筆を移そうとするこの時期、彼の暗鬱な精神の内部には未来への微かな希望の光が差し始めていた。1898年に発表された『ヨーヌィチ』では小市民生活の泥沼が暗鬱に描かれる。同年末に脱稿された『可愛い女』は、自らと相手を幸福にする…
十一谷 義三郎『静物』
結婚して間もない里村道助と妻は、早くも生活に倦怠を感じ始めていた。ある日、道助は旧友の画家・遠野の画室を訪れる。遠野は自由奔放な生活を送り、モデルのとみ子とともに享楽的な態度を見せつける。道助は自分の堅苦しい生活との落差に反発し、逃げるように帰宅する。帰宅後、道助は結婚前の創作原稿を取り出して自己の内面世界に没頭しようとするが、妻は夫が自分を締め出し秘密の世界を築いていることに不満を募らせ、夫婦間…
香倶土 三鳥『奇妙な遠眼鏡』
アア、サア、リイの三兄弟のうち、三男のリイは片目が見えず兄たちからいじめられていたが、温和な性格であった。ある祭りの日、三人は父親から欲しいものを聞かれ、アアは「百発百中の鉄砲」、サアは「何でも切れる刀」、リイは「どこでも見える遠眼鏡」を望む。両親はリイの安全な願いを褒め、兄たちを叱る。その夜、腹を立てた兄たちに窓の外へ放り出されたリイの前に魔法使いの老婆が現れ、望む場所を見たり行けたりする呪文と…
海若 藍平『キキリツツリ』
継母にいじめられながらも毎日家事をこなす尋常四年生の露子は、女学校への進学を望んでいたが継母に強硬に反対され悲しんでいた。ある夜、雨戸の桟から赤い帽子を被って言葉を話す不思議な小さな虫が現れ、露子に同情して進学の手助けを約束する。翌朝、露子の学校の校長が家を訪れて両親を説得し、無事に進学の許可と夜の勉強時間が与えられた。しかし露子は、継母に心配をかけないために夜の勉強を辞退し、普段の授業に集中して…
川田 功『乗合自動車』
若く凄腕のスリである守川英吉は、新米の箕島刑事に尾行されながらも余裕で銀座の街を歩き、資生堂で昼食をとる。そこで同席した年増の貴婦人の驕慢な態度に反感を抱き、彼女を標的に嫌がらせを企てる。乗合自動車の車内で貴婦人の財布をすろうとするが、すでに別のスリに抜かれた後であった。苛立つ英吉の前に隙だらけの中年紳士が現れると、彼は鮮やかな手口で金時計と財布をすり取り、あろうことかその盗品を先ほどの貴婦人の袂…
川上 眉山『書記官』
病気療養のため箱根の温泉宿を訪れた省の書記官である奥村辰弥は、美貌の娘である三好光代を見初め執着を抱く。光代の父である資産家の善平は、辰弥の官僚としての肩書きに惹かれて親しく交際を始める。光代は若き哲学者の東条綱雄と惹かれ合っていたが、綱雄は辰弥の俗物的な軽薄さを嫌悪して善平と激しく対立し、光代を残して帰京してしまう。その後、炭山の払い下げ事業を目論む善平は、官僚である辰弥の裏工作に完全に依存する…
菊池 寛『奇巌城』
フランスのジェーブル伯爵邸に怪盗ルパンの一味が忍び込み、名画を贋作とすり替える。伯爵の姪レイモンドは逃走するルパンを銃で撃つが、彼を不憫に思い僧院の隠し部屋に匿って看病する。一方、17歳の天才少年探偵イジドール・ボートルレは事件の捜査に乗り出し、伯爵が裏切った家令ドバルを殺害した事実や、名画のすり替えを次々と見破っていく。ルパンは全快するとレイモンドを誘拐したように装って姿を消し、彼女と結婚する。…
菊池 寛『形』
摂津の松山新介に仕える侍大将・中村新兵衛は、「鎗中村」として広く恐れられる豪傑だった。彼が身につける猩々緋の服折と唐冠の兜は、戦場において敵には脅威を与え、味方には絶対的な信頼の的となっていた。ある日、幼い頃から守り役として育ててきた主君の側室の子である若武者が、初陣で手柄を立てるために新兵衛の服折と兜を貸してほしいと頼んでくる。新兵衛は若者の功名心を笑って受け入れ、自らの「形」である武具を快く貸…
金 史良『土城廊』
朝鮮・平壌の大同江畔にある貧民窟「土城廊」には、土幕(土小屋)に住む最下層の人々が暮らしていた。元奴僕の純朴な男・丁元三は、荷担ぎ人(支械軍)として働きながら、自分に住処を世話してくれた病弱な同僚の先達とその妻の生活を実質的に養っていた。先達は稼ぎの少なさから妻と絶えず衝突し、自分を援助する元三をも憎むようになる。一方、元三は先達の妻に密かな恋心を抱き、彼女と共に貧民窟を抜け出す新しい生活を夢見る…
キプリング ラデャード『世界怪談名作集』
インドの避暑地シムラに滞在するイギリス人文官ジャック・パンセイは、かつて不倫関係にあったウェッシントン夫人を冷酷に捨てた。彼女は「何かの間違いだ」と悲観しながら死んでしまう。その後、ジャックはキッティ・マンネリングと婚約し幸福の絶頂にあったが、ある日シムラの街中で死んだはずの夫人が乗る黄色い人力車の幻影に遭遇する。白黒の法被を着た苦力が引くその人力車はジャックにしか見えず、夫人の亡霊は生前と同じ言…
小舟 勝二『扉は語らず』
「私」は最近知り合った元S百貨店店員の男から、6年前に同百貨店で起きた装飾工墜落死事件の隠された真相を聞かされる。事件当夜、仕入部員だった男は退勤後に五階の倉庫で居眠りをしてしまい、内側から施錠されて出られなくなってしまう。夜になり空腹に耐えかねた彼は、無理やり倉庫の扉を押し開けた。その時、扉の外の売場では大がかりな装飾工事が行われており、扉の前に立てかけられていた巨大な丸太が押し出されて倒れ込ん…
児玉 花外『菜の花物語』
四月の菜の花が咲き乱れる大和路を、狂熱しやすい精神を持つ「私」はロマンチックな幻影を追いながら一人旅をしている。壺坂寺の近くでは昔の夢の女を思わせる機織りの女を見かけ、菜の花畑の続く街道では狐を思わせる異様な顔立ちの花嫁の行列に遭遇する。その花嫁の行列は、晴天に降る金銀の雨と共に霧の中へ消え去り、「私」はそれを狐の嫁入りではないかと怪しむ。夜になり、名も知らぬ古い街の宿に着いた「私」は、狸のように…
小泉 八雲『生霊』
江戸霊岸島の瀬戸物店主人・喜兵衛は、番頭である六兵衛の甥を手代として雇い入れる。甥の卓越した商才によって店は一層繁盛するが、やがて彼は原因不明の重病に伏してしまう。心配した六兵衛が理由を問いただすと、甥は女主人の生霊に首を絞められる幻覚に昼夜を問わず苦しめられていると告白する。驚いた喜兵衛が妻を問い質すと、彼女はお人好しな一人息子が将来有能な手代に財産を乗っ取られるのではないかと恐れるあまり、無意…
今野 大力『トンカトントンカッタカッタ』
製縄工場を舞台に、過酷な労働環境で働く女工たちの悲惨な日常が描かれる。身重の女工が床の縄くずに足を取られて転倒し、半死半生の苦痛の中で初産を強いられる。また、工場の内儀が機械の性能を見せびらかそうとして誤って手を巻き込まれ、手首を切断する凄惨な事故が起きる。見習いの女工は作った縄を帳場に蹴落とされながらも、子連れで過酷な労働を続ける。一番の古参である老女工は、手がすり切れて血が滲むほど早朝から夜遅…
黒木 舜平『断崖の錯覚』
大作家を目指しながらも臆病な性格に絶望していた20歳の学生である「私」は、冬休みに海岸の温泉地を訪れる。宿泊先の旅館でつい見栄を張り、実在の新進作家の名を騙って滞在する。ある日、喫茶店で断髪の少女・雪に出会い、初めての酒に酔いしれながら彼女に惹かれていく。雪もまた、「私」を憧れの新進作家本人だと信じ込み、二人は夜の旅館で密かに結ばれる。翌朝、裏山を散策する中で、雪が愛しているのは自分自身ではなく「…
楠山 正雄『八幡太郎』
弓の達人として生まれ育った八幡太郎義家は、父・頼義と共に奥州の安倍貞任・宗任兄弟との九年にわたる苦しい戦いを制する。戦いの中で貞任と和歌を交わす情けを見せ、生け捕りにした宗任の命を救い、その寛大さによって彼を忠実な家来へと変える。京都への凱旋後、学者の大江匡房から戦の学問が足りないと指摘されると素直に教えを乞い、後に再び奥州で起きた三年戦争では、雁の乱れ飛ぶ様子から伏兵を見破り危機を脱するなど、知…
桑木 厳翼『春水と三馬』
語り手は、幼少期から自宅にある二つの草双紙、為永春水の『絵入教訓近道』と式亭三馬の蔵書印がある『赤本智恵鑒』について考察を巡らせる。『絵入教訓近道』は、イソップ寓話を戯作風の文章と日本の田園生活に合わせた挿絵で翻案した教訓書であり、天保十四年に没した春水の大衆向け絶筆とも言える作品である。一方の『赤本智恵鑒』は明和七年の出版で、閑人である「先生」が鍼医の巧案にそそのかされて「猿蟹上人」と名乗り、赤…
李 孝石『蕎麦の花の頃』
左利きの老行商人・許生員は、相棒の趙先達や若き行商人の童伊とともに、蓬坪の市から次の大和の市へと月夜の道を歩き出す。道中、許生員は若い頃、蓬坪の水車小屋で成書房の娘と一夜だけの関係を持った忘れられない思い出を語る。娘はその後、家族と夜逃げして行方知れずになっていた。同じく身の上を語り出した童伊は、自分が父親の顔を知らずに育ち、未婚の母の故郷が蓬坪であることを明かす。川を渡る際に足を滑らせた許生員は…
李 光洙『愛か』
11歳で両親を亡くし親戚にも見放された苦労人の学生・文吉は、東京での留学生活の中で激しい孤独感に苛まれていた。彼はある運動会で見かけた少年・操に強く惹かれ、手紙で愛を告白して同意の返事を得る。しかし、操の実際の態度は冷淡に感じられ、文吉は血書を送るほど一方的に思いを募らせていた。帰郷を翌日に控えた夜、文吉は必死の勇気を振り絞って渋谷にある操の家を訪ねる。案内されて家に上がったものの、襖の奥にいるは…
マクラウド フィオナ『かなしき女王』
海上で激突した二つの軍勢が相打ちとなって海に沈み、スヴェン軍の戦士ウルリックとファルカ軍の琴手コンラの二人だけが生き残る。彼らはミストの島スケエの城を治める女王スカァアの捕虜となる。かつて愛した詩人クウフリンの面影を二人に重ねたスカァアは、彼らに死を宣告しつつも最後の歌を歌うよう命じる。処刑の夜、海岸の篝火の前でウルリックは死を前に恋など考えられないと歌を拒むが、コンラは自身が抱く唯一の永遠の愛の…
マクラウド フィオナ『髪あかきダフウト』
アルモリカの王グラッドロンは遠征先から、美しく神秘的な女性マルグヴェンと、海獣の血を引く恐るべき黒馬モルヴァアクを伴って帰国した。二人は深く愛し合い、海上で娘ダフウトを儲ける。ダフウトが生まれる際、海には魔的な現象が起こり、マルグヴェンは娘が類い稀な美しさを持つと共に、やがて国に災禍をもたらす存在になると予言した。その後、グラッドロンは再び遠征に出るが、不在の間にマルグヴェンは亡くなってしまう。最…
牧 逸馬『土から手が』
1919年3月8日、カリフォルニア州サンマテオ郡の街道を走行中のトラック運転手トニィは、崖下の河床の土から突き出て手招きするような女性の手を発見する。通報により遺体が収容され、解剖の結果、死因が非合法な堕胎手術の失敗と放置によるものと判明する。衣服のタグなど身元を示す証拠は周到に剥ぎ取られていたが、遺体の公開により、被害者が赤十字看護婦のアイネ・リィドであることが特定される。サンフランシスコ警察の…
正岡 子規『花枕』
二人の神の子である光と匂は、主である男神のために下界の絶壁に美しい草花を集め、見事な花の寝床を作り上げる。やがてそこに、継母からの過酷な虐待に苦しむ貧しい十四、五歳の少女が迷い込む。少女は家に残した妹を案じて帰宅をためらっており、花の美しさに惹かれて深い眠りに落ちてしまう。天上の高殿からそれを見た男神は、哀れな少女を苦難から救い出して天人にしようと決意する。男神は光と匂を連れて下界に降り、眠る少女…
松本 泰『P丘の殺人事件』
ロンドンに滞在する青年・坂口は、同居する伯父の林順三郎が突如として不自然な外出を繰り返すようになったことを不審に思う。同じ頃、林の想い人である未亡人エリスは、過去に因縁のある悪漢コルトンから脅迫を受け、苦悩の日々を送っていた。コルトンはエリスの娘ビアトレスを罠にかけてパーク旅館に監禁するが、密かに隣室に投宿して事件を追っていた林によって救出される。その後、エリスを恐喝するために指定されたパラメント…
松永 延造『職工と微笑』
元小学校教員である「私」のもとに、ある青年が自伝的小説を持ち込む。青年は支那人の父の血を引き、周囲から疎外されて育ったセルロイド職工であった。彼の知的障害のある妹は病院へ奉公に出るが、院長の息子に利用されて放火の罪を着せられ、投獄されてしまう。青年は院長の息子への復讐を企てるが実行する勇気を持てず、深い鬱屈と自暴自棄に陥る。その「復讐の代償」として、青年は偶然万引きを見かけた薄幸の少女・ミサ子を脅…
宮地 嘉六『ある職工の手記』
佐賀駅前で宿屋を営む実家に生まれた語り手の「私」は、狡猾な継母に疎んじられ、妻に同調する実父からも冷遇されて家に居場所がなかった。13歳の秋、同郷の友人が佐世保の造船所で職工として働く姿に憧れ、両親を見返したいという反抗心から無断で家出を決行する。道中で偶然出会った車夫の善作の家に厄介になることになった私は、善作の息子である権八とともに、海軍造船所で軍艦の鉄錆を落とす「かんかん叩き」の少年労働者と…
宮島 資夫『恨なき殺人』
夏の山奥の鉱山で働く事務員の池田は、自分を中傷する手紙を鉱主から受け取り、鬱屈した日々を送っていた。彼を陥れたのは対立する所長の石山だと推測した池田は、自暴自棄になって酒に溺れる。ある日、気晴らしに飯場頭の萩野や坑夫の三田とともに隣山の旧坑を見に行くが、そこで隣山の坑夫と諍いになる。池田が仲裁に入ってその場は収まるが、隣山の事務員である阿久津は不満を抱く。数日後、隣村の祭りで坑夫の寅吉が殺害される…
三宅 花圃『藪の鶯』
明治の鹿鳴館時代。欧州留学から帰国した子爵家の養子・篠原勤は、表面的な西洋風俗の模倣を嫌い、道徳と実学を重んじていた。一方、彼の義妹であり許婚の浜子は西洋かぶれで、毎晩のようにダンスや夜会に興じていた。勤は養父の死を機に、価値観の合わない浜子との結婚を白紙に戻す。勤は養父母への恩義から浜子に財産の多くを譲り、彼女が気に入っていた官吏の山中正と結婚させて独立させる。しかし、山中は裏で元泥水稼業の情婦…
宮沢 賢治『銀河鉄道の夜』
貧しく孤独な少年ジョバンニは、活版所で働きながら病気の母を支えている。ケンタウル祭の夜、同級生のザネリたちにからかわれて町を飛び出したジョバンニは、町外れの丘にある天気輪の柱の下で夜空を見上げる。気づくと彼は銀河鉄道の客車内に座っており、前の席には親友のカムパネルラが乗っていた。二人は銀河を走る列車の中で、鳥を捕る男や、沈没船の事故で命を落とした家庭教師と姉弟など、さまざまな乗客たちと出会い別れて…
森 鴎外『カズイスチカ』
大学卒業を目前に控えた医学士の花房は、千住で開業医を営む父のもとで代診の手伝いをする。新しい西洋医学を学んだ花房にとって、父の知識は古く時代遅れに見えたが、自身が漠然とした人生の目的を探して思い悩んでいるのに対し、父はどんな患者や日常の些事にも全幅の精神を傾注し、病人の死期を正確に見抜く直感を持っていた。花房はその泰然自若とした態度に有道者の面目を見出し、父を深く尊敬するようになる。のちに官吏とな…
森 鴎外『白』
保険会社の役人テオドル・フィンクは、病気で死に瀕している弟を見舞うため、ウィーンからニッツアへ向かう途中、ヴェロナの駅で夜中の乗り継ぎ待ちをすることになる。暗く不気味な二等待合室で、フィンクは同じく汽車を待つ見知らぬ若い女の声に話しかけられる。自身も病気で故郷に帰る途中だというその女は、世間から隔絶された真っ白な部屋で妹のアガアテとともに過ごす静謐な生活について、まるで夢のように語り続ける。死や彼…
森 鴎外『舞姫』
主人公の太田豊太郎は、エリート官僚としてドイツのベルリンへ留学する。現地で自らの自我に目覚め、型にはまった生活に疑問を抱くようになる中、貧しく美しい舞姫のエリスと出会い恋に落ちる。豊太郎の行動は同郷の人々から官長に報告され、彼は免官処分を受ける。豊太郎とエリスは同棲を始め、豊太郎は通信員として働きながら貧しいながらも幸せな生活を送る。やがてエリスは豊太郎の子を身ごもる。しかし、親友の相沢謙吉の紹介…
森 鴎外『辻馬車』
10年ぶりに再会した貴夫人と男の会話劇。貴夫人は、10年前の10月にブダペストの晩餐会で男に家まで送られた夜の真相を語り始める。当時、貴夫人は男に惹かれており、関係が進展する可能性に身を委ねるつもりでいた。しかし、男が手配した辻馬車が騒音のひどく寒々しい「一頭曳」であったため、車内での繊細な会話や、好意を伝えるための沈黙のニュアンスを作り出すことができず、二人の恋はすれ違いに終わってしまったのだと…
森下 雨村『五階の窓』
探偵小説家の長谷川と冬木刑事は、西村電機商会の社長・西村陽吉がSビルディングから転落死した事件の現場で、犯行の手口について推理を交わしていた。一方、若い刑事に手柄を奪われ遺族調査に回されて腐っていた老刑事の沖田は、旧友の小西警部を訪ねた警視庁で、小西が捕まえたスリの留公から被害者の鞄が発見されたことを知る。留公の証言により事件当日に現場のビルに不審な男がいたことが判明し、沖田はその男の特徴が西村電…
森田 草平『四十八人目』
元赤穂藩士の毛利小平太は、主君の仇・吉良上野介を討つための連盟に加わり、江戸で同志と同宿しながら吉良邸を探索していた。その最中、浅野家の元家臣の娘であるおしおと偶然再会し、秘密裏に恋仲となる。討ち入りの日が近づくにつれ、同志たちが死の覚悟を固め、あるいは恐れをなして脱盟していく中、小平太の心には死への恐怖と身ごもったおしおへの未練が募っていく。自らの弱さを断ち切るため、小平太はおしおを殺害しようと…
中 勘助『銀の匙』
主人公「私」は、虚弱で神経過敏な子どもとして生まれ、神田の家で母に代わって愛情深い伯母の背中で育てられた。外の世界を恐れる「私」は、伯母の語る昔話や百人一首、古いおもちゃに囲まれた空想の世界に浸って過ごす。やがて一家が小石川へ引っ越すと、自然豊かな環境の中で近所の「お国さん」という初めての友達ができ、草花や虫の命に触れて感性を育んでいく。学校に上がることを頑なに拒んでいた「私」もやがて登校し始め、…
中島 敦『悟浄歎異』
天竺への旅の途上、沙悟浄は仲間たちの三者三様の生き方を観察し、思索を巡らせている。過去に釈迦如来によって五行山に封じられた経験を持ちながらも、現在では純粋な情熱と天才的な行動力で目前の出来事に全力で挑む孫悟空。現世の快楽を誰よりも愛し、その底にある種の絶望を隠し持つ猪八戒。そして、妖怪にすぐ捕まるほど肉体的に無防備でありながら、自己の悲劇的な運命を受容して決して内面を揺るがせない三蔵法師。悟浄は、…
南部 修太郎『病院の窓』
十七歳の五月、重い腸チフスに罹った「私」は、赤坂の病院で死の淵を彷徨ったのち奇跡的な回復を遂げる。献身的な看護婦の武井さんや見舞いに来る母に支えられながら、「私」は病室の窓から中庭や向かいの病棟を眺めて過ごすようになる。順調に回復していく中で、「私」は向かいの病室に入院してきた若い女性とその夫の憂いを帯びた姿に関心を持ち、別の病室で患者が亡くなった出来事なども通して、病院という空間が抱える生と死の…
夏目 漱石『吾輩は猫である』
一匹の名もなき猫が、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に拾われ、居候として暮らすようになる。猫の視点から、書斎に籠り精神修養と称して昼寝や無駄な思索にふける主人や、その家に集まる迷亭、水島寒月、越智東風、八木独仙といった一癖も二癖もある知識人たちの滑稽な日常と議論が描かれる。ある日、近所の有力な実業家・金田の妻である鼻子が、娘の富子と寒月の縁談の件で苦沙弥の家を訪れる。苦沙弥と迷亭は鼻子の傲慢な…
夏目 漱石『坊っちゃん』
幼い頃から無鉄砲で損ばかりしている江戸っ子の「おれ」は、物理学校を卒業後、四国の田舎の中学校に数学教師として赴任する。赴任先では、事勿れ主義の校長「狸」、陰険で裏表のある教頭「赤シャツ」、その腰巾着の画学教師「野だ」といった教師たちや、いたずら好きで反抗的な生徒たちに辟易する。「おれ」は最初、正義感の強い同僚の数学教師「山嵐」とも衝突するが、彼が陰口を叩かず筋を通す人間だと知り、次第に意気投合して…
新美 南吉『飴だま』
春の暖かい日、渡し舟に二人の小さな子供を連れた母親と、黒髭の強そうな侍が乗り合わせる。侍は舟の真ん中で居眠りを始めるが、やがて子供たちが飴玉を欲しがって駄々をこね始める。母親の手元には飴玉が一つしかなく、困り果てて子供たちを必死になだめる。その騒ぎで目を覚ました侍は、突然刀を抜いて親子の前にやってくる。母親は子供たちが斬り殺されると思い真っ青になってかばうが、侍は飴玉を差し出させると、舟の縁に置い…
沼田 一雅『暗夜の白髪』
語り手が、幽霊を信じない警察官の知人から聞いた体験談。某氏は芝烏森の小粋な屋敷長屋に引っ越すが、深夜に便所へ行くと庭に青白い顔の老婆が立っているのを目撃する。一度目は気のせいかと思ったが、一ヶ月後に再び同じ老婆の姿を見て恐怖に駆られ徹夜する。翌日、家主を問い詰めると、その家はかつて華族に奉公していた老女が建てたもので、彼女は貯め込んだ金を放蕩者の養子に全て騙し取られ、狂死したことが判明する。某氏は…
大庭 武年『旅客機事件』
D飛行場を出発した旅客機の中で事件が起きる。H飛行場に到着すると、乗客の銀行家・秀岡が額を砕かれて惨殺されており、生糸商人の綿井が行方不明になっていた。その後、綿井が落下傘とともに墜死体で発見され、秀岡が所持していた大金が消えていることが判明する。秀岡によって一家を破産させられた過去を持ち、飛行中に彼を脅迫していた機関士の三枝に殺人の容疑がかけられる。操縦士の池内は同僚である三枝の無実を証明するた…
岡本 綺堂『小坂部姫』
南北朝時代の暦応三年。足利将軍家の執事である高師直の娘・小坂部は、父が塩冶判官の妻に横恋慕していることを憂い、双ヶ岡の吉田兼好に恋文の代筆を頼む。兼好は「なよ竹の」とだけ記し、塩冶の妻からは拒絶を示す「重きが上の小夜衣」という返歌が届く。執着を断ち切れない師直は、権力を乱用して塩冶一族を謀反人に仕立て上げて討伐しようと企てる。父の暴走を止められないと悟った小坂部は、塩冶へ密告したのち、恋人の本庄采…
小山内 薫『因果』
ある俳優が十数年前の巡業中、金沢の宿屋の十九歳の娘と深い仲になった。彼はそのまま旅を続けたが、娘は彼の子を難産の末に出産し、母子ともに亡くなっていた。その事実を知らない俳優だったが、旅先の宿屋や料理屋で、目に見えない同伴者の分の座布団や膳を出されるという不可解な経験を重ねる。やがて東京に戻って結婚した彼は、妻とともにさらなる奇妙な現象に遭遇するようになる。誰の姿もないのに格子戸が自動で開いたり、二…
尾佐竹 猛『大岡政談』
江戸時代中期、八代将軍・徳川吉宗の厚い信任を受け、江戸町奉行に抜擢された大岡越前守忠相は、白洲に持ち込まれる数々の難事件を卓抜した洞察力と人情味あふれる名裁きで解決していく。「天一坊一件」では、証拠の品を悪用して吉宗の御落胤を騙り、大名に取り立てられようと企む詐欺師・天一坊と、その参謀である知恵者の浪人・山内伊賀亮の大陰謀を、越前守が己の命と役職を懸けた再吟味によって打ち砕く。「村井長庵一件」では…
尾崎 紅葉『金色夜叉』
両親を亡くし鴫沢家に養育された間貫一は、鴫沢家の娘である宮と許嫁の関係にあった。しかし、宮は正月のカルタ会で出会った銀行家の御曹司・富山唯継の莫大な富とダイヤモンドの指輪に心が眩み、貫一との約束を破って富山と結婚することを決める。貫一は熱海の海岸で宮を問い詰めるが、翻意させることはできず、激しい怒りと復讐を誓って彼女のもとを去る。絶望した貫一は学業を捨て、他人の不幸につけ込む高利貸し・鰐淵の手代と…
蒲 松齢『考城隍』
村の給費生である宋公は病に伏していたある日、役人に連れられて見知らぬ城郭へ行き、冥界の試験を受けることになった。そこで長山出身の秀才・張生と共に文章を作り、宋公は「意図的な善は賞せず、無意識の悪は罰せず」と書き、神々に称賛されて河南の城隍神に任命される。しかし宋公は七十歳になる老母を養うため辞退を申し出た。関帝らの計らいで老母の寿命が尽きるまでの九年間、張生が代理を務めることになり、宋公は現世へと…
リルケ ライネル・マリア『「マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記」から』
「私」はパリでの生活の中で、街に溢れる病気や恐怖、死の匂いを嗅ぎ取り、圧倒的な孤独に苛まれている。事物の本質を捉えようと「見る稽古」を始めた「私」は、人々が顔を使い捨てたり顔を持たずに歩いたりする異様な光景や、外界の事象が自己の内部にまで侵入してくる感覚に戸惑い、自身が変容してしまったと感じる。パリの病院では工場のように画一的な死が大量生産され、人々は既製の死を与えられていることに「私」は絶望する…
三遊亭 円朝『業平文治漂流奇談』
安永年間の江戸。本所業平村に住む浪島文治郎は、腕が立ち情に厚い侠客でありながら、厳格な老母に孝行を尽くしていた。文治郎は、借金苦から心中しようとした袋物屋の友之助と芸者のお村を救い夫婦にしてやるなど、数々の弱者を助け、また悪党を拳で制裁しては改心させていた。一方、本所割下水の剣術道場主である大伴蟠龍軒と弟の蟠作は強欲な悪党であった。大伴兄弟は取り巻きの阿部忠五郎と共謀して友之助に賭け碁をさせ、証文…
佐藤 春夫『「の」の字の世界』
三人兄弟の末っ子であるうたちゃんは、来年から幼稚園に通う女の子である。世話好きで賢いが、絵本を読んでも自分でお話を作ってしまうため、文字をなかなか覚えようとしなかった。語り手である親は、せめて名前だけでも書けるようにと文字を教えようとするがうまくいかず、代わりに「の」の字を教え始める。うたちゃんは苦労しながらも「の」の字の読み書きを習得する。それ以来、うたちゃんは新聞や雑誌の活字だけでなく、コマの…
里村 欣三『放浪の宿』
太陽が焼けつく満州の街。職を求めて奉天から歩いてきた左官の若者は、正念寺が営む不潔な無料宿泊所に辿り着く。そこには、妻を亡くして流浪する時計屋、ロシアに憧れ社会主義に傾倒する大連、そして粗暴な無法者の支那服と黒眼鏡がたむろしていた。支那服と黒眼鏡は野犬を撲殺して手際よく解体し、文句を言う寺の坊主を刃物で脅しつける。一方、大連はロシア人の酒場で声高に社会主義の気焔を上げていたが、白系ロシア人の密告に…
関根 黙庵『枯尾花』
複数の不思議な出来事からなる奇談集である。北千住では妻を虐待死させた寄席の亭主が怨霊に悩まされ、浅草の僧は若い頃に分身する遊女に遭遇する。旧幕府時代には死んだ妻の幽霊が赤子に乳を与えて育て、伊賀上野では罪人を秘密裏に処刑した護送役が怨霊の訪問を受けて後悔し百姓となる。先代の坂東秀調は伊勢で病気の女に化けた狸に鰻を騙し取られ、伝馬町の牢では処刑直前の夫の霊が妻の夢に現れる。大阪の俳優・中村福円が手厚…
妹尾 アキ夫『凍るアラベスク』
東京郊外の女学校で体操教師をしている勝子は、ある冬の夕暮れに銀座へ買い物に出かけた際、青白い顔をした見知らぬ男に跡をつけられる。有楽町駅前で声をかけてきたその男は宮地製氷所の経営者・宮地銀三と名乗り、勝子の顔が自分の幻覚に現れる未来の妻にそっくりだと告げる。この出来事の翌日、銀三は突如として行方不明となる。三日後、親友で共同経営者の暮松からの通報により、常川警部らが工場を捜索に訪れる。暮松によれば…
島崎 藤村『夜明け前』
嘉永6年の黒船来航から明治初期にかけての激動の時代。木曾路・馬籠宿で本陣・庄屋・問屋の三役を務める青山家の跡継ぎである半蔵は、本居宣長や平田篤胤の国学に深く傾倒し、古代日本の純粋な精神を取り戻す王政復古の実現を熱望していた。参勤交代や和宮下向による過酷な助郷負担など、街道役人としての重責に苦しむ父・吉左衛門を助けながら、半蔵は村の教育にも尽力する。やがて明治維新を迎え、半蔵は新政府に理想の世の到来…
下村 湖人『次郎物語』
乳が足りず乳母のお浜に預けられて育った次郎は、実家に戻されてから祖母の冷遇や母の厳格な躾に反発し、反抗的で孤独な幼少期を過ごす。母・お民の死や実家の没落、継母・お芳の登場といった試練を経る中で、次郎は常に愛を求め葛藤する。中学に進学した次郎は、朝倉先生と出会い「白鳥会」に参加することで、人間としての正義や真の良心に目覚める。しかし、五・一五事件などを背景とした軍部の圧力により、自由主義的な朝倉先生…
鈴木 三重吉『村の学校(実話)』
フランスがドイツに敗戦し、アルザス・ローレイヌ地方がドイツ領となった時代。村の小学校では優しいフランス人のハメル先生が追放され、冷酷なドイツ人のクロック先生が赴任してくる。クロック先生は容赦ない暴力で生徒を支配し、ドイツ語を強要した。寄宿舎に入れられた語り手は、同室のガスパール・ヘナンという少年と親しくなる。自然の中で育ったガスパールはフランス語を愛し、ドイツ語の授業に適応できず反抗し続けたため、…
田畑 修一郎『医師高間房一氏』
大正時代、主人公の高間房一は苦学の末に医師となり、かつて天領であった古い気風の残る故郷・河原町に帰郷する。対岸の農村「河場」の出身である房一は、少年の頃に町側の子供から受けたいじめや見下された記憶から、町の人々に対して静かな反骨心と野心を抱いていた。房一は旧家・鍵屋の空き家を借りて「高間医院」を開業し、妻の盛子を迎える。有力な大石医院の存在や、農民出身の彼を一人前の医師として認めようとしない町の人…
橘 外男『墓が呼んでいる』
作家の「私」は、結核で死の床にある青年・柳田から奇妙な体験談を聞く。数年前、長崎の雲仙から山中へ迷い込んだ柳田は、東水の尾という場所で、ユーゴスラビア帰りの元銅山王・石橋弥七郎と、混血の美しい姉妹ジーナとスパセニアに出会う。戦争で財産を失い隠棲する一家と親しくなった柳田は、対照的な魅力を持つ姉妹の両方に惹かれるが、優柔不断から選べないまま東京へ帰る。その後、柳田は結核で倒れ2年以上も再訪できず、連…
高浜 虚子『続俳諧師』
春三郎の兄・文太郎は田舎から上京し、弟の勧めで下宿屋「松葉屋」の経営を始める。春三郎は山本家の娘である照ちゃんと事実上の夫婦になっており、文太郎の妻・お金や子どもたちも合流して一家で下宿屋を切り盛りすることになる。しかし、不慣れで過酷な労働により照ちゃんはつわりと過労で倒れ、春三郎も病に伏せる。限界を感じた春三郎夫婦は松葉屋を出て独立し、春三郎は別の事業を始めて成功を収め、照ちゃんは娘を出産して平…
武田 麟太郎『現代詩』
市役所の清掃課で臨時雇いとして働く主人公は、重い結核の症状に苦しみながら、銀座の茶房で働く妻・かつ子の収入に頼る生活を送っている。かつ子につきまとう客の岸田に対する嫉妬や、精神を病んでかつ子に横恋慕する兄・彦造、口うるさい老母との同居生活に、主人公の神経はすり減っていた。ある日、幼少期に自分を養子にしながら実子誕生を機に離縁した京都の伯父が危篤との知らせを受け、主人公は一人で赴く。伯父が奇跡的に持…
田村 俊子『木乃伊の口紅』
みのると夫の義男は極度の貧困の中で暮らしている。文学で身を立てることを諦めかけた義男は、妻の才能を見下し、暴言や暴力を振るって支配しようとする。みのるは生活苦や夫との不和に苦しみつつも、芸術への情熱を捨てきれずにいた。ある日、義男は地方新聞の懸賞小説への応募をみのるに強要する。みのるは反発しつつも原稿を書き上げる。並行して、みのるは新劇団の募集に応じ、義男の反対を押し切って再び女優として舞台に立つ…
田中 英光『箱根の山』
昭和18年の暮れ。「私」は満5歳の息子・一郎を連れて箱根を訪れる。前日に初めて山を見て興奮した一郎の「山に登りたい」という願いに応え、私は息子を鍛える意図も込めて、湯本から元箱根までの険しい箱根旧街道を二人で歩き始める。道中、私は戦時下の厳しい時代を生き抜く逞しさを身につけさせようと、時にはわざと厳しく接し、理不尽に怒鳴りながらも、大声で「箱根の山は天下の険」と歌って息子を励ます。単調で過酷な山道…
谷崎 潤一郎『猫と庄造と二人のをんな』
芦屋で荒物屋を営む甲斐性のない男・庄造は、ヨーロッパ種の雌猫リリーを溺愛していた。庄造の母・おりんは、気に入らない前妻の品子を家から追い出し、実家が裕福な姪の福子を後妻に迎える。福子は庄造が自分よりも猫を可愛がっていることに激しく嫉妬し、リリーを捨てるよう執拗に迫る。庄造は抵抗しきれず、仲人の塚本を介してリリーを品子の元へ渡すことになった。六甲の妹の家に身を寄せていた品子は、庄造の未練を引いて福子…
田山 録弥『草道』
中国の山中を旅する日本人の男四人(B、H、S、K)と中国人の案内者は、馬賊の襲撃を恐れ、宿泊予定だった山寺から逃げ出して深い草道を急いでいた。男たちは見知らぬ土地の気味悪さと、案内者すら馬賊の回し者ではないかという疑心暗鬼に苛まれている。やがて一行は前方に中国人の母娘連れを発見する。男たちは馬賊除けの好都合な道連れになると考え、冗談を交わしながら彼女たちの後をついて歩く。しかし、異国の山中で屈強な…
とだ けん『ルルとミミ』
ある国にある美しい湖の村に、ルルとミミという孤児の兄妹が住んでいた。鐘造りだった父親はかつて、音の出ない鐘を造ったことを恥じて濁った湖に身を投げた。成長したルルも村人のために立派な鐘を造り上げるが、やはり音が出ず、絶望したルルは濁り始めた湖へ身を投じてしまう。一人残されたミミは悲しみに暮れる中、睡蓮から教わって花の鎖を作り、湖の底の御殿へ向かう夢を見る。夢の中でミミは、湖の水を澄ませる噴水を直させ…
戸田 豊子『歩む』
主人公のとも子は、単調なカード整理の事務仕事に就きながら、自動車の運転手として働き労働争議に身を投じる兄の姿に影響を受けていた。ある日、とも子は社会主義者を自認する知識人の恋人・渡のアパートを訪れるが、彼の観念的な態度や女性関係のだらしなさに幻滅し、彼への愛が冷めつつあることを自覚する。郷里で小作争議が激化していることを伝える新聞を読んだとも子は、命がけで闘う農民たちと、今の停滞した自身の生活を比…
徳田 秋声『質物』
妻を亡くした小説家の捨三は、不幸な境遇にありながら宿屋で創作活動にふける女性・栄子を頻繁に見舞うようになる。栄子は過去に幸福な結婚生活を送っていたが、破綻と同棲の失敗を経て身を持ち崩し、捨三を「先生」と慕って頼っていた。捨三は彼女から聞いた話をもとに小説を書き、その原稿料を彼女の生活費として手渡す。栄子は当初遠慮するものの、捨三の厚意を受け入れる。その後、栄子は捨三の家にも出入りし、幼い娘の梅子と…
外村 繁『夢幻泡影』
作家である「私」は、脳軟化症や神経痛に苦しむ妻・とくの看病を続けている。ある夜の看病後、妻は嘔吐や布団の小火などの騒ぎを経て意識不明に陥る。数日間の昏睡状態が続いた後、妻は少しの苦痛も見せずに安らかに息を引き取る。「私」は看病時の自身の態度に後悔を覚えるが、妻の穏やかな死顔を前に実感が湧かない。葬儀を終え、弔問客や親族が去って一人になると、「私」は妻の喪失による巨大な空洞を感じ、抑えきれない涙を流…
豊田 三郎『リラの手紙』
大学生の久能は、千駄木の青江の家に寄宿して執筆活動に励んでいた。同居する会社員の青江に対し、初めは嫌悪感を抱いていた久能だが、作家の妹・頼子からのリラの香りがする手紙を受け取ったことを機に、青江は彼に対して強い執着を見せ、献身的に世話を焼くようになる。久能が肺炎で倒れた際の看病を経て、二人の関係は深まる。しかしその後、久能は心当たりのない性病に罹患し、青江からの感染を疑い始める。青江は頑なに潔白を…
豊島 与志雄『レ・ミゼラブル』
19年の徒刑を終えて出獄したジャン・ヴァルジャンは、世間の冷酷な扱いに絶望していたが、ミリエル司教の深い慈悲に触れて改心し、正しい人間として生きることを誓う。彼は名をマドレーヌと改め、工場を興してモントルイュ・スュール・メールの市長にまで上り詰めるが、無実の男が自分の身代わりで裁かれようとしているのを知り、法廷で自らの正体を告白して再び徒刑囚となる。脱走後、彼は薄幸の女ファンティーヌに託された遺児…
壺井 栄『赤いステッキ』
瀬戸内海の石垣が多い村に住む5歳の克子は、生まれつき目が不自由であった。近所の子供たちからからかわれると激しく抵抗し、母は心を痛めながらも娘の負けん気の強さに頼もしさを感じていた。兄の健が幼稚園に通い始めると、克子も外の世界に憧れて寂しさを募らせる。両親は克子が将来自立できるよう盲学校のある都会への移住を望み、父は遠く越後の高田へ出稼ぎに出ていた。ある日、幼稚園に行きたがる克子に対し、母は「盲学校…
宇田川 文海『松の操美人の生埋』
東京生まれの半痴居士は、地方に移住して以来、愛好する市川団十郎の演劇と三遊亭円朝の落語を見られないことを残念に思っていた。明治17年に上京した際にも彼らの芸に触れることは叶わなかった。翌18年の夏、避暑で有馬温泉を訪れた居士は、真宗の僧侶である無々君と出会い親交を深める。二人は文章と話し言葉の表現力について議論し、無々君は人の感情を動かす上で言文一致の言語表現がいかに優れているかを説き、特に円朝の…
若松 賤子『忘れ形見』
与えられたテキストは、プロクター(Procter)の詩『The Sailor Boy』の一節を英語で引用したものである。詩の中では、語り手が「彼女」がいかに優しく、美しく、善良であったかを語っており、もしその魅力を言葉で伝えることができるなら、あなたも彼女を愛するだろうと述べている。具体的な物語の筋書きや背景設定は描かれていない。
ホワイト フレッド・M『真劇シリーズ』
本作は「今は亡き俳優手配師の備忘録」として語られる、演劇界にまつわる六つの逸話を集めた物語である。第一話では、厳格な富豪バートンが偶然観劇した寸劇で勘当した娘の困窮と愛情を知り、己を省みて家族と和解する。第二話では、大富豪の娘オードリが女優になる野望を叶えるため、興行師と組んで失踪騒動を自作自演しロンドンの舞台で大成功を収める。第三話では、貴族の婦人が屋敷に招いた劇団の代役女優が、実は刑務所を脱走…
ワイルド オスカー『絵姿』
画家ベエシル・ハルワアドは、美しい青年ドリアン・グレイの肖像画を完成させる。ドリアンはヘンリイ卿から若さと美の価値を教えられ、自分の代わりに肖像画が老いることを願う。その後、ドリアンは女優シビル・ヴェンと恋に落ちるが、恋を知り演技への情熱を失った彼女を冷酷に捨てて自殺に追いやる。この事件を機に、肖像画は彼の残酷さを反映して醜く変化し始める。ドリアンは永遠の若さと美貌を保ちながら快楽と罪悪に溺れる生…
山本 勝治『十姉妹』
大干ばつと小作争議で極限まで疲弊した農村。農民運動に参加する青年・慎作は、地主側が暴力組織を雇ったという報告に闘志を燃やす同志たちを前に、自身の運動への情熱の衰えと一家の深刻な貧困に苦悩していた。多額の借金と養蚕の失敗に苦しむ中、かつて区長を務めた頑固な祖父は、巷で異常な流行となっている小鳥「十姉妹」の飼育によって一攫千金を狙うよう強硬に主張する。慎作は、農民としての地道な連帯こそが重要であり、投…
山下 利三郎『流転』
霙の降る夜、若き小説家の小村は、みすぼらしい放浪者を哀れんでカフェに招き入れる。放浪者は、愛する女性を殺されたうえに友人に裏切られ、無実の罪で10年間服役したという数奇な身の上話を語った。小村はすっかり感銘を受けて金を渡し、その話をそのまま自分の小説として発表して原稿料を得る。しかし後日、一通の手紙が届き、あの放浪者の正体が小村の尊敬する大作家・垂水洋鵝であったことが判明する。悲劇的な話は彼が即興…
柳川 春葉『一つ枕』
ある男が友人に誘われ、吉原の青楼を訪れた時のこと。前夜から遊び続けて気が乗らず帰ろうとしたが、友人に引き留められ、三階の隅の部屋で一人休んでいた。周囲が静まり返る中、うとうとしていると、見知らぬ遊女が部屋に入ってきて枕元に座り、男を揺り起こそうとする。男は息苦しさに起き上がることもできず、ただ手で拒絶し続けるしかなかった。やがて廊下に足音が響き、男の相手である敵娼が部屋に入ってくると、見知らぬ遊女…
与謝野 寛『執達吏』
新体詩家の眞田保雄は、後進を育成するために多額の借金を背負い、困窮した生活を送っていた。妻の美奈子は有名な歌人であり、身を粉にして働きながら家計を支えているが、現在五人目の子供を妊娠中であった。保雄は状況を改善するため、発行していた雑誌を百号で廃刊にし、郊外の大崎村から市内の麹町区へと引っ越す。新居で心機一転を図ろうとしていた矢先、保雄が土地を買い占めて大儲けしたという新聞の根拠のない噂を信じ込ん…
吉田 甲子太郎『負けない少年』
北極海に面したアラスカのエスキモーの村で、13歳の少年キーシュは母親と共にみすぼらしい雪小屋で貧しく暮らしていた。彼の父はかつて村のために命を落とした立派な狩人だったが、村人はその恩を忘れ、キーシュ母子には骨ばかりの古い肉しか与えていなかった。ある日、不公平な扱いに怒ったキーシュは寄合で大人たちに抗議し、自ら一人で狩りをして皆に公平に肉を分けると宣言する。大人たちは彼を馬鹿にするが、キーシュはたっ…
羽志 主水『越後獅子』
東京の下町で出稼ぎ労働者の辰公が、ラジオ屋の前で演芸放送を立ち聞きしている最中に、長屋の火事を発見する。焼け跡からは、料理人である勝次郎の妻・お時が、首に手ぬぐいを巻き付けた半死半生の姿で発見され、まもなく死亡する。勝次郎は女癖が悪く、直前に妻と激しい喧嘩をして家を出ていた上に妻に生命保険をかけていたため、井澤警察署長は彼を絞殺と放火の犯人と断定し厳しく追及する。しかし、現場を訪れた若き山井検事は…